子供の頃、車に手首を轢かれた。
しかし無傷だったのが今でも謎である。
確か家の道路で一人でサッカーをしていた時の事だった。
孤独にドリブルにいそしむ僕の前に一台の車が現れた。
それは隣の家の人の車で駐車しようとゆっくりと侵入して来たのだ。
サッカーのトレーニングを瞬時にやめ、車の邪魔にならないように待機する。
我ながら出来た子供である笑
しかし、何かの弾みにボールが車の方にこぼれてしまったのを覚えている。
ちょうどボールが車の後輪に轢かれそうな感じなった。
「ボールが破裂する!」
車の心配よりもボールの心配をするところが子供である。
気付いたら自然に身体が反応していた。
ゆっくりと接近する車の後輪の前方に緩やかに転がっていくボールを弾こうと、右手が出た。
その瞬間であった。
ちょうど後輪がボールに乗り上げてしまったのだ。
そしてその隙間に何故か入る僕の右手笑
下から、地面→ボール→右手→後輪と行った具合に見事に挟み込まれてしまった。
その重さはセダンなので約一トン、後輪分なので四分の一の250キロが右手に掛かったのだ。
激痛が走るが、なかなか車はどけない。
十秒ぐらいした後、やっと車が乗り過ぎていった。
解放された僕は涙目になりながらボールを回収し、ダッシュで家の中に逃走を図る。
しかし、不思議と痛みも怪我も無く、無傷に生還したのである。
恐らく、下のボールがクッションとなりその重さを軽減してくれたのだろう。
しかし当時の僕としては「車に押しつぶされても怪我をしない鋼鉄の肉体を持つ男」と思い込んでしまったのである。
鋼マンとして友人達にふいて回ったのはいうまでもない。
この前も書いたが、最近大学猫にド嵌りしている。
暇さえあれば、大学に出向いてまたたび片手に猫と戯れる。
趣味も楽しみも無い僕としてはコレだけで楽しい。
小学生レベルの楽しみなのだが、なかなか抜け出せない。
最近では隠れる事無く堂々とベンチに座り、タバコを吸いながら自分の回りにまたたびを一振りすると、匂いにつられわさわさと猫達が集まってくる。
「別に猫に興味は無いけど、動物を寄せ付けちゃう体質の人」感を道行く人々にアピールできるのが溜まらない笑
実際はまたたびの力なのだが、道行く人々には愛され体質の素敵人間に映っていることだろう。
というか集まり過ぎて猫の中に人間が居るという図に見えると思う。
とりあえず猫に夜中会いにいくために体内時計がおかしな事になっているので直したい。
日常生活に支障を来し過ぎな趣味である。
人間と猫は違う種族だから、猫はそこらへんを分かってくれない。
我々には日常生活があるのだ。
猫はあほみたいな生活が出来て羨ましい。
だからそんな逃避のために人間達は猫達を愛でて、飼い始めたのかもしれない。
愛玩や鼠退治などの意味合いもあるかもしれないが、その根本には脱力で自由な生活をそこに夢見ていたのだろう。
自分にできない事を猫に託す。
ムスコにプロ野球選手を目指させるオヤジみたいな思想がそこには詰まっているのだ。
ストーキングに昔嵌っていた。
可愛い女の子に付いていったりするゴリゴリの犯罪行為ではない。
街でたまたま目についたおっさんやイケてない男子学生の後をつけるのが楽しいのだ。
これもある意味ストーカーかもしれないけど、犯罪ではないだろう笑
おっさんを尾行し、行動を探る。
ゴールはその人の家。
その人の家や見た目から人となりを想像して、独り悦に入るのだ。
イケてない学生なんかは特に妄想が捗る。
家が新興住宅地にあり、ちょっと豪華な感じだと、更にエモさに拍車がかかる。
恐らくひとりっこで手厚く育てられているものの、学校では二軍に所属し、馬鹿にされる人生を送っていると思うと切ない。
しかし、勉強はできるので彼の人生は上向きになっていくだろう。
完全に偏見をもとにした妄想なのだが素晴らしい。
あと、尾行する人ともう二度とあえないと思うと切なさがマックス。
まさに一期一会の出会いなのだ。
もう人生で交わることがないと思うと、泣きそうになっておすすめです。
でも、あるとき客観的に見て気持ち悪いとおもったので辞めました笑
ついにまたたびを入手したので、それを片手にこの前学校内に発見した猫ベースへ突入。
今回も深夜四時の突入であったが、全ての猫が起きていた。
こいつらいつ寝てるのか疑問が残る。
暗闇の侵入者に猫達はびびり、ちりぢりになっていく。
警戒する猫達と距離を置きながらの観察がこれまでは続いていたが、今回は秘密兵器を投入。
自分の周囲に粉末状のまたたびをまんべんなく振りかける。
そうしてしばらく待つと、その匂いを感じ取ったのか一匹の猫が警戒しながらも接近して来たのであった。
しばらく様子を見ているとぺろぺろとまたたびを舐め始めた。
そしてついに横になり、酔っぱらいのような状態になった。
さすが猫界の合法大麻である。
その効果はてきめんで、身体の力が抜け、完全にラリっていた。
それに連鎖するように周囲の猫たちも吸い寄せられていき、順当にラリっていく。
深夜のドラッグパーティーの始まりである。
十匹程度の野良猫達が自分を囲んで脱力をし始める様は爽快だった。
恐らく教祖様はこんな気分が毎日味わえるのだろう。
そりゃ宗教が流行る意味も分かる。
ベロンベロンになった猫達を観察しながら一人で爆笑していると、 通りに謎の車が通過した。
よく見ると警備会社の車で敷地内をパトロールしていたのだ。
ドラッグパーティーから一瞬で緊張が走る。
今バレたら絶対捕まると思ったので茂みの中に身を隠す。
この緊張感はヤバかった。
夜中の四時に茂みの中で隠れているところを見つかるなんて、イリーガル行為しか捉えられないからである。
しかも粉末状のまたたびもドラッグだと勘違いされるに決まっている。
「猫の世話をしてまして…」というのも言い訳にしか思えない。
でも本当に怖かったのは「野糞をしている」と勘違いされる事であった笑
ドラッグよりノグソだと勘違いされる方が恥ずかしい。
しかし上手く隠れることができてその場をやり過ごせた。
忍者の末裔ではないかと自分を疑ったものである。
恐怖でいっぱいになったのでその場を立ち去り、敷地からそそくさと退散する。
帰り道にそのセキュリティーカーと鉢合わせ、散歩している人を演じながらもめちゃくちゃ動揺したのはまた別のお話。
東南アジアとか中国韓国のオシャレな若者を見ると切なくなる。
なんか背伸びした感じが堪らない。
欧米への憧れみたいのが見え隠れしてしているのだが、アジア体系に全く似合っていないあの様。
ヨーロピアンには絶対勝てないと思うと悲しくなる。
独自のスタイルを展開すればいいのに模倣に走る切なさ。
資本主義が生んだ悲劇(?)とも言えよう。
とくにタイとかの若者の切なさはヤバい。
言葉にできないけど、一目見れば分かる。
地元で有名なDJの様なタイカルチャーの体現者みたいな人を見た時の諸行無常さ。
あと台湾とかの前髪七三みたいなぴたぴたヘアーでアラレちゃん眼鏡の切なさもいい。
四人グループいたら三人はそれなのが面白いのだ。
日本人も外から見れば大体同じように見えるのだろうか。
非常に興味深いものである。
ついに近所の大学の猫の本拠地を特定できた。
夜の11時ぐらいに行ったら4〜5匹溜まっていてテンションが上がったものの、近くのベンチにいい感じの恋人がイチャついていたので猫との交流は断念笑
空気ぶっ壊してホーミーをやろうかと思ったけどまだそのハートの強さは持ち合わせていませんでした。
日中は人通りも多いし、かといって夜中に行ってもそこそこカップルとか居るのでなかなか猫と心から絡む事が出来ない。
なので時間を置いて夜中の四時頃に再び猫たまりへ突撃。
静寂が訪れた大学。
ひとっこひとりいないその空間はとてつもないエモさがありました。
そして期待をしながら猫ベースへ突入。
信じられない程の猫がいた。
二十匹程の野良猫達がベンチの下に身を寄せ合っていたのだ。
中にはじゃれ合っている奴らや熟睡しているものなど多数。
まさに猫の楽園がココに存在したのである。
とりあえず警戒させないように静かに近づく。
野良猫はなかなか心を開かないため、自分から接近し過ぎたり触りにいっては行けないのは鉄則。
餌やまたたびなど手みやげがあればなお良し。
しかし、手ぶらでの突入だったため、猫達といい距離を保ちながら持久戦に持ち込む。
忍耐こそが野良猫攻略の一歩である。
とりあえず心からの交流を図るため、地面に寝る。
恐らくヒトに見られたら確実に通報か心配されるのだが、そこは深夜四時で無問題。
目線を猫達と合わせ、静かなる交流にテンションが上がる。
そして写真を数枚撮り、満足した後に退散。
夜中の野良猫だまりにマジで感動した。
ココ数日、夜中や明け方になると毎日そこに通っている。
何とか心を開かせて、子分にしたいものである。
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光り過ぎ。 |
深夜徘徊もいいが早朝徘徊もいい。
また違った趣があって堪らない。
深夜徘徊は夜中特有の「この世で独り」感を存分に味わえるが、
早朝徘徊はそれとは違って「コレから動き出す」感が堪らない。
朝の六時ぐらいにそこらへんをぶらぶらすると既に働いているバイトくん、散歩に精を出す老人、ペットを散歩に連れ出す人たち、オールして死にそうになっている大学生、ワンカップ片手に闊歩するロートル、出社前にジョギングを欠かさないエリートっぽいリーマンなど様々な人種に出会える。
一種の人間交差点というか、普段だったら絶対絡まないような人々に出会えるのがとてつもなくエモいのだ。
その人達の人生を想像してセンチな気分になる事間違い無しである。
散歩が終わった後に松屋に行ったら、新聞配達を終えて腹ごしらえをしようとしている青年がいた。
なんか勝手に色々境遇を想像して凄いエモーショナルな気分になった。
両親は幼い頃に居なくなり施設に預けられ、今は新聞配達をしながら定時制に通い、大学入学を目指す、みたいな笑
早朝の松屋で運命的な出会いを果たし、彼の運命は変わっていく事だろう。
それぞれの人生を勝手に妄想して自己満足するのは楽しい。
早朝徘徊はそんな妄想に直結するような訳ありそうな人々に出会える。
そういう短編集みたいなのが欲しい。
まさにエモ。
最も過大評価されている食べ物は蟹だと思う。
まず値段が高過ぎる。
どんな高級な蟹であっても所詮蟹の味でしかない。
不味くはないが旨くもない。
ありがたがって食べる物では無いと個人的に思っている。
あとかにかまなるイミテーションも存在する。
高級な蟹の味を庶民の食卓へをコンセプトとするかまぼこ加工食品。
最近では本物の蟹と味も見た目も遜色ない精巧なものが存在している。
僕にいわせりゃ、蟹より旨い笑
値段的にも蟹の味はコレぐらいがちょうどいいんじゃないかと思っている。
だから蟹って本来はかにかまぐらいのスタンスで食べるものだと思う。
というかあの高さは捕獲コストとか保存コストに掛かるものだろう。
でもそこまでして食べるものなのかも疑問が残る。
ちなみに僕の場合は知り合いのおっさんが余った蟹を良く持って来てくれたので、高級なイメージは余り無い。
学校から帰ってくると玄関に置き手紙とともにでかい発泡スチロールの箱が置いてあり、それを開けると氷の中で蠢く無数の蟹を見た時は得体の知れない恐怖を覚えたものである。
地球外生命体を見かけたら多分同じような感情を抱くに違いない。
恐らく、蟹は本当に地球外生命体なのだろう。
それが今日の蟹人気につながっているという仮説を立てる事が出来る。
侵略して来た宇宙人を食い尽くすという人間の生存本能みたいなのが働いているに違いない。
ヒトには地球外の存在を排除する本能が遺伝子レベルで刻まれているのだろう。
蟹星人を根絶やしにするのが我々の使命なのだ。
だから皆、蟹を食べる時は黙るし、漁師もリスクを犯して必死に捕獲する。
そしてあの殻を必死に割り、中から出てくる労力の割にあわない身を必死にかき出す。
「異物をハカイせよ 」という命令が下されているに違いない。
でも蟹味噌は好きです。
大学には猫がうじゃうじゃ居る。
猫にとって一番過ごしやすい環境である事は間違いないだろう。
広大な敷地に雄大な緑、安全と平穏が確保されたその土地は人間ですら住みたくなるほどなのだから。
恐らく野良猫カーストに置いて、大学猫というのは最上位に位置すると思う。
安全が確保され、仲間も多く、餌にもあり着けやすい。
生存を確保するには持ってこいの場所である。
大学によっては猫を保護するサークルも存在するため、野良猫のくせに家猫よりVIPな生活が可能となるのだ。
最近、近所の大学に猫をよく探しにいく。
猫が敷地内を横切るのは日頃よく見かけるのだが、その住処というかベースとなる基地を発見しようと探索しているのである。
茂みや人間が立ち入らないような場所をくまなく探す。
それも深夜に笑
その大学は通り道としても活用されているため、深夜に人と出会うと、かなり相手はビビってこちらをみてくるのも堪らない。
恥を棄てて、探索活動をしているのだが一カ所ぐらいしかまだ生息地を発見できていない。
というか猫は帰巣本能はあまり無いのかもしれない。
その日暮らしというか、安心できる区域に居ればどこでもいいのかも。
だとしたら、かなり捜索は困難を極めるのだ。
しかも、群れで活動することもひなたぼっこぐらいしかないし、基本シングル猫ばっか。
深夜に出会い頭で茂みにダッシュ逃走はデフォなので、なかなか特定できない。
まさに猫っぽい生き物なのだ笑
というか猫なんだけどね。
いつか猫穴場を見つけて誘拐するのが今のところの夢です。
ガルキマセラとうモンスターがFFで出てくるのだが、この名前をずっと「ガゼルキマイラ」だと思い込んでいた。
というかガゼルキマイラ以外あり得ない。
ガルキマセラって何かネーミングとしてむりくりというかおかしい。
元ネタはググったところギリシャ神話に出てくる妖怪ぽいのだが、うーん。
大体、名前の区切るところが分からない。
ガルキ・マセラなのかガル・キマセラなのかそれともガルキマ・セラなのか。
いずれにしろ、しっくるくる事は無い。
あと英語版のFFではガルキマセラはJAKANAPESというらしい。
意味は生意気な奴・うぬぼれや・こましゃくれた子供などがあげられる。
というかガゼルキマイラの方が絶対かっこいいと思う。
モンスターの形状と意味は全く違うけど、この溢れ出る敵感と邪悪感。
ガゼルは鹿っぽい絶滅危惧種の動物でキマイラはギリシャ神話の混血っぽい怪物の事。
転じてキメラとも読む。
この語感のよさはハンパないと思うんですがどうなんでしょうか。
自分が好きな音楽はどういうものなのか分析。
基本的にジャンルはこだわり無く聞くのですが、やっぱ好きなジャンルは激情系ハードコアとかカオティックハードコアですね。
とにかくアツい。
あとテクニカルなことをしているのにそれがひけらかしっぽくなくて感情に直結してるところがまたいいんですよ。
楽器全体で攻めてくるあの一体感や何度聞いても血肉湧き踊る楽曲たちが最高。
変拍子とか不協和音的な要素があるとさらにいいかもしれない。
でもこれもうめー!じゃなくてきめー!ってなってるバンドが好きです。
聞いた事が無いものをやっぱり求めているんですね。
逆にメタルはあんまり好きじゃありません。
テクニカル至上主義的なところも強いし、凄い事やってるんだろうけど僕に言わせりゃ単調。
特にドラムの取り合えずバスドラどこどこしとけばいいみたいな風潮も好かない。
というか単純に五月蝿い笑
クサいとかダサいが褒め言葉として使用される一種の様式美的なところも苦手です。
マンネリ感がハンパないというか、これ以上音楽的に発展のしようがない閉塞感みたいのが嫌いです。
まああんまり聞いた事が無いだけかもしれませんが。
あとクリーントーンでチャカチャカやってるオシャレなバンドも大好き。
心地いいんですよね。
噛み過ぎて味の無くなったガムを噛んでいるようなあの感じが堪りません。
ベースがゴリゴリで動きまくるとガム感が増して最高。
あれは耳の咀嚼音ですよ。
あとギターのシャレオツなコード感も堪りません。
テンションコードとかのあの響きがまた最高。
ここにも余り聞いた事が無いものが聞きたいという気持ちが強いのかもしれないです。
でもなんだかんだで昔聞いていたアニソンとか懐メロ、メロコアが大好き。
思い出補正というのは音楽界の味の素ですよ。
思い出さえ入ればなんでも素晴らしい曲になってしまうのです。
しかし、一周回って楽曲の再評価もあるから侮れない。
大人になってからちゃんと聞くと、ちゃんと作ってるんだなーと感心させられる事も多々あります。
これも十年寝かした楽曲の楽しみの一つかもしれません。
とりあえず自分の核となる音楽的趣向としては、未知なる曲を聴きたいというものですね。
聞いた事無い音というか、cd再生して一発目に感じるあの脳汁ドバドバでるのを求めているのです。
中学校ぐらいであんまり色んな曲とか知らなかった時は毎回あの現象が出来ました。
しかし、段々耳が肥えてくるとそんな事も年に一回あるかないかなんです。
だからそれを常に追い求めているといえましょう。
まさにロマン。
たまにある感覚。
集団で居るときに勝手に一人足りないと思っちゃう。
別に足りない人など居ない。
家族全員で集まってメシを食べる時も、なぜか居ない人がいると思ってしまうのだ。
非常に気持ち悪い感覚である。
何かが足りない。
心の中での違和感が止まらないし、何故そう思ったのかも分からない。
集団で居る時はかなりの確率で思ってしまう。
子供の頃に特にそう思う事が多かった。
現状への不満が心理的に現れているのか、それとも本当に「もうひとり」存在していたのか。
めちゃくちゃ気になりますね、この感覚。
あとこういう種類のホラーは結構怖くて好きです。
昔、クレしんの夏休みにたまにあるホラー回で、いつものしんのすけの仲間達に1人知らない子が混ざっているという話があったんだけど、これが痛烈にトラウマに残っている。
しかも、内の地域ではテレ朝系が映らなくて、他の系列局が買い取って放送してたらしく、その諸々の理由でその回でクレしんが打ち切りになっちゃったんだよね。
ホラー回で後味悪く打ち切りとか当時の僕としては不気味で仕方なかった。
この思い出が強いのかもしれない。
あと、新世界よりでもこういう設定があった。
あの感覚は好きだけど、物語自体はめちゃくちゃつまらなかった思い出笑
豚ブロック 400g
ホールトマト 一缶
タマネギ 一個
ジャガイモ 二個
ニンニク 一個
コンソメ 一個
水 400ml
豚を一口大に切って塩こしょう。
オリーブオイルとニンニクで焼き目を着ける。
その後、野菜を適当に投入して炒める。
いい感じになったら、水とホールトマト、コンソメをぶち込み煮込む。
三十分ぐらいしていい感じだったら火を止めて、塩、醤油で味を整える。
バジルソースをぶっかけ、食べる。ウマ過ぎワロタ。
さっき近所を歩いていた時の事。
台風のせいか、パラパラと小雨が降り出したのでいそいで帰宅しようとしていた。
雨の中、後ろからめちゃくちゃクラクションが鳴り響く。
人通りが多く、狭い道なのでこのような事は日常茶飯事であるが、怒り狂ったようにクラクションをその車は連発していた。
たまにこういうキチっぽいおっさんいるよなという感じで人々はモーセの如く道を作る。
そしてそれに満足したのかその車は荒ましい速さで過ぎ去っていった。
その車の後ろに一台の原付が走っていた。
オッサンがカッパを着ていて、雨に対する準備完璧だと思っていたが少し違和感があった。
足下に注目すると、そのオッサンは靴を履かずに、素足で原付を運転していたのである。
思わず笑った。素足に原付て笑
もっとよく見ていると、どうやら素足ではなかった。
足裏だけ真っ黒になっていて、足袋のようなものを足の裏に貼付けていたのである。
ますます意味が分からな過ぎて笑った。
足裏にヌーブラを貼付けている様な感じを想像してもらいたい。
ぱっと見素足なのに足裏だけは完璧にガード。
機能性と効率性を追求した素晴らしい靴(足袋?)を垣間見た瞬間であった。
思うに、あのオッサンは未来人だろう。
あんなスタイリッシュな足下は見た事が無い。
台風のせいで時空に歪みが出来て、気付いたら2013年の九月にたどり着いたのだ。
オッサンの前を走っていたクラクションカーも同様かもしれない。
あまりの突然の事に気が動転してしまったと思うと合点が行く。
恐らく、僕は今日からあの靴の開発に乗り出す。
そして近い未来開発に成功して巨万の富を得るだろう。
あのオッサンは企業スパイかなんかで、未来の技術を過去に持っていく事により、僕みたいな人間に気付いてほしかったのだ。
本来、別の人間が発明するはずだったものを過去にもってくる事によって、未来を変えようと奮闘していたのだ。
前方のクラクションカーで周囲の気を引き、その後の素足足袋に注目を寄せる。
全て計算づくだったのである。
自分で書いててアホらしくなってきたんでこの辺で。
小学生の頃から暖めていた世にも奇妙な物語っぽい話。
タモリ「ここに一枚の写真があります(鳥が飛び立とうとする写真)。写真というのは時を切り取り、固定する。それが連続する事によって時というのは進んでいくのです(写真がパラパラ漫画のような連続体になり、飛び立つ鳥)。もし貴方がそんな時間停止に巻き込まれてしまったらどうしますか?」
ある晴れた日の昼下がり、主人公は道を歩いていた。
突如鳴り響くクラクション。
振り返ると自分に向かって車が突っ込んでくるのが分かり、一瞬のうちに諦める。
しかし、目の前で車は停止し、間一髪で助かる。
どうやら車が止まったのではなく、時が停止したようであった。
自分以外の人間は完全にフリーズし、静寂が訪れるのに戸惑う主人公。
最初は困惑していたが、時間が止まっているのをいい事に考えつく全ての行為を行う。
しかし、そんな遊びにもすぐ飽きてしまい、死のうかと考えるが、どうやら無理らしい。
なんとかして時間を進めようとそこから主人公の奮闘が始まった。
人の体を触ってみると、ある一定の方向にだけ決まった範囲動かせる事が判明。
どうやらその人達の次の行動分だけ動かせるらしい。
コレを地球全員分に施せば時間が進むのではないかと思った主人公の孤独な旅がはじまった。
歩いている人をアシストしたり、バランスを崩しそうになっている人が耐えようとしているのを元に戻したりする。
中には事故の直前で時間が止まっており、死を回避で出来ない者や飛び降り自殺直前をアシストしなければならない事もあった。
それぞれの「一瞬」を進める事に戸惑いを覚える主人公。
しかし、コレが運命だと信じてひたすらに人々を動かしていった。
何十年も経過した。
ついに全ての人間の行動を一歩づつ進める事に成功した。
そのとき、ある一筋の光が見えた。
ついにその時が来たのだ。
その光源を目指して一目散に走り出す主人公。
そこには固まったままの半透明な自分の姿があった。
しかし、目の前には自分に向かって突っ込んでる車もあり、戸惑う主人公。
でも、ここに重なればすべてが終わるのだろう。
そう確信した主人公はコレまでの事を思い出しながら、自分の陰に身体を重ね合わせる。
覚悟は出来ていた。
次の瞬間であった。
時間が再び動き出したのである。
喜びをかみしめる主人公だったが、その時間は数秒も無かった。
案の定、主人公に車が突っ込んで来てブラックアウト。
彼は死んでしまった。
そして時は何事も無かったかのように進み続けていった。
途絶え行く意識の中で彼はある事を悟った。
死にゆく人間は死の一秒前に最後の仕事を与えられる。
そう、それは世の中の時間を一秒だけ進める事であった。
死に行くものは皆、最後にこの試練をこなす事によって、時間というのは少しづつ進んでいくのである。
そうやって人間は時を刻み繁栄を繰り返して来たのであった。
タモリ「人々の犠牲のもとに時というのは刻まれていったのですねえ。私たちの何気ない日常が彼のような犠牲の上に成り立っていると考えると少々、心が痛むよーな気もします。」
カメラが引くと、半透明で静止したタモリが画面の右端に。
それに気付くとカメラ目線になり、画面に向かって微笑みかけるタモリで終了。
地元で一番旨いと評判だったラーメン屋が近所にある。
我が地域は都会と違ってラーメン偏差値は低く、世間で流行っているよな豚骨ベースのこってりラーメンは皆無であるが、シンプルな田舎風醤油ラーメンは低偏差値なりに幅を利かせていて、都会を凌駕する事もある。
そんなあっさりしょうゆを突き詰めており、店長がおじいさんでその奥さんのおばあさんとその娘二人(これもすでにおばあさん)で切り盛りしている伝統あるお店である。
その歴史はかなり古く、戦前から存在していたらしい。
しかもメニューはラーメン大中小の三つしか無いという自信っぷり。
でもコレが旨くて、昼前になると行列ができ、一時過ぎても食べられないという事が良くあった。
そんな評判も数年前の事までであった。
この前久しぶりにその店を訪れたのだが、おじいさんは健在なもののよぼよぼ感が凄まじい事になっており、「まだ生きてんだなー」と生存を喜びながらも少し悲しくなった。
注文を済まし、昔と変わらない位置にあるブラウン管極小テレビに釘付けになっていたのもつかの間、ついにラーメンがやってくる。
見た目はあのままで昔の記憶がよみがえる。
透き通るような醤油ベースにコレでもかと加えられた味の素。
そして素朴なチャーシューにネギともやしとめんま。
そのいかにもなラーメンのスープを味わったその瞬間であった。
味が違うのだ。
全く旨くない。
味がぶれているという表現がふさわしかった。
分量を間違えているというか、いろいろバランスがおかしな事になっており、旨さのパーツはそろっているもののそれががっちりと嵌っていない。
あんなにうまかったラーメンの劣化に悲しくなった。
まあもうよぼよぼのジジイだし、味がわからなくなるのも仕方ないかもしれない。
老化には勝てないと思うと凄い切ない。
もうあの味は出せないのだ。
おじいさんが店を去ったら全てが終わり、思い出も途切れて行く。
諸行無常。
人工的に作られた埋立地。
東京湾には商業施設やゴミ処理場などがあり、足りない大地を補うかのように日々拡張を続けている。
しかし未だ発展途上であり、成熟には到達していない。
よく都市は生き物であると表現される事がある。
人々の欲望により無秩序に発展して行く様は無機物とはもはやとらえられないのである。
特に埋立地などはその最もであるといえる。
欲望を満たすために海を狭め、土地を拡張する。
便利最適化された現代社会に置いて、新天地は未開のものではなく、自分たちの目的にあわせ、創造するのがふさわしいのかもしれない。
まさに神に近づいて来ているような気もしない事は無い。
埋立地の発展途上な様が非常に心打たれる。
海に浮かぶという自然状態でありながら人工的なものというのが堪らない。
しかしそこは完全には都市化されておらず、不完全なまま、その時を待っているのだ。
空き土地が沢山ある地帯を見た時など、ある種都会のオアシス的な悠久の美しさがある。
エモーショナル。
エモという表現が似合うのだ。
回りに高層物件は無いし、山も無い、海に囲まれたその地域は視界一杯に青空が広がる。
都会でありながら閉塞感からの脱出というのがまた堪らない。
この世で独りな気分を味わえるし、ある種の終末感が漂う。
まさに近未来化が引き起こした、偽りの安寧と言えるかもしれない。
そのうち人間が廃れていくにつれ、そのような棄てられた土地は増えていくだろう。
いまはまだ全盛に向かって増え続けているので、発展途上の美しさがある。
しかし、いつしかその成長が終了したときには崩壊と遺棄の美しさに変容するだろう。
パイパンにした。
特に理由はないが、今まで一度もやった事なかったので記念に。
欧米人への強い憧れもあるかもしれない笑
つるつるになると気持ちいい。
仮性野郎なので毛が絡まりエグい思いをする事が多かったのだが、そんな心配は皆無。
衛生面的にもいいのでお勧めしたい。
あと剃ると、もともとここには毛が無かったんじゃないだろうかと思える。
今思うと毛があった方が違和感が凄いのだ。
人間にはこの方が自然な状態かもしれない。
というかデメリットが一切無いので絶対やった方がいいと思う。
「欧米を意識した」という強烈ないい訳ワードもあるので、バレても余裕だと思う。
まあまだ剃りたてほやほやなので異常は見つかってないけど、ちょっと伸びてくるとかゆみが出たりチクチクしてくるらしい。
ちょっと恐怖とともに楽しみである。
あとヒゲと同じぐらいのペースで生えてくる。
朝にそったけど、夜になった今ではなかなか長い。
定期的なメンテナンスが必要だろう。
人の家って最高。
自分の家とは違う価値観に基づいた生活空間。
まず匂いが違う。
自分の家では味わえないあの薫りは非常に僕らを引きつける。
そして見た事も無い本やアイテム達。
自分の知らない世界を垣間見る事が出来、一種の異文化を体感できるのである。
凄い面白そうなものを「いらないから貸してあげるよ」と言われた時の嬉しさったらない。
小学生の頃、友人の家に遊びにいった時の夕方。
友達の家族が帰って来て、居心地の悪さを感じるあの瞬間。
凄い切ない。
子供心にココに居てはいけないんだなと悟ったものである。
しかし、中高生になると溜まり場的な家が出来てくる。
何故かどんな夜中に訪問しても受け入れてくれる友人というのは存在するのだ。
夜通しゲームをしたり、酒盛りと少しプライベートな空間に新鮮な大人の楽しさの鱗片を知る。
更には大学社会人で一人暮らしとなると、もはや人の家でも気遣う事無く溜まり場の一歩上の肥溜め場と化す。
ここには小学校の頃感じていた人の家の切なさもあったもんじゃない。
勝手に飯を作り、勝手に風呂を入って、住人不在のまま爆睡でインターホンが鳴ったかと思うと勝手に宅配便を受け取るという私物感。
快適なもののあの刹那性は味わう事が出来ないのだ。
もう一度、小学生の頃の切なさを体感したいものである。
不可侵領域である両親の寝室や兄弟の部屋。
夕方になると強制的に出て行かなければならなかったあの帰り道。
たまに晩飯をごちそうしてくれるけど、自分の家庭の味とは違い過ぎて、リアクションに困るあの瞬間。
何が言いたいかというとこの気持ちを手軽に体験できる施設が欲しい笑
人の家っぽいホテルというか宿泊施設が欲しいのだ。
漫画喫茶の個室版といっていいかもしれない。
友人っぽい部屋を丸丸再現して、ゲームや漫画をそろえる空間。
勝手に寝てもいいし、冷蔵庫からつまみ食いしてもいい。
もちろん食事も出てくるけど、家族というていのスタッフ手作りを一緒に食べる。
あの居心地の悪さを再び体験したい。
チェックアウトの時間になると、友人の父親役が帰って来て、一言挨拶笑
早く帰れオーラを感じながら素早く清算からの帰宅。
夢ですなあ。
NHK「おはよう日本」内のとある人気コーナー。
便利グッズみたいのを紹介するほのぼのとしたコーナーなのだが、NHK特有の狂気を持っていると個人的に思っている。
まず、NHKのクセに商品宣伝しまくっているのだ。
もちろん原則的に宣伝はしてはならないので、商品名などは一切排除している。
かえって、それが気持ち悪さを増長さしている気がしてならない。
しかも出てくる商品も何とも言えないB級感が漂うのがポイント。
朝飯時に何度、いらねーと脳内でツッコミを入れた事か。
もう一つは出演者の謎っぷりである。
便利グッズを実際に利用している素人の家庭にお邪魔して、その使いっぷりをみるというていなのだが、キャスティグから何まで謎過ぎる。
もしガチならば、どうやってそんな家庭を見つけてくるのか謎過ぎるのだ。
スタッフの知り合いとか、どっかに登録制になっているのだろうか。
もし、劇団員をキャスティングしたとしていてもそれに見合ってない気もする。
そして、もっとも気持ち悪いのがあのセンスの無いプレゼンテーションである。
ナレーションにのせて、無理矢理させられているような素人丸出しの小芝居。
NHK特有のサブさみたいのがアレに集約されているのだ笑
毎朝、密かにイラついていたのは言うまでもない。
とりあえずキャスティングの件だけはいつか解明したい。
何故自分でもこのコーナーに対してこんなにも固執しているのかが分からない。
コレが恋煩いなのだろうか。
最近は余りやらないのですが、昔結構嵌ってました。
夜中になると、財布とiphone片手に散歩に繰り出す楽しさ。
ちょうど嵌ってた時期は引っ越してまもなかったので新しい発見ばかりで最高なんですね。
自転車でもいいし徒歩でもいい。
目的も何も決めずにひたすらと進み続ける。
そうすると、街灯以外真っ暗の住宅街や普段の活気とは別次元の商店街にぶち当たる。
日中とは違う姿を見せる街が堪りません。
「この世で独り感」が最高に味わえます。
あの瞬間のために深夜徘徊はあるのです。
しかし、そのうちあまりの孤独感が続くと、心にもダークサイドが襲ってきます。
それはオバケや頭おかしい人に対するものなどさまざまですが、得体の知れない恐怖を凄まじく感じてしまうのです。
そんな時はラジオに逃げましょう。
音楽でもいいのですが、やはり、語りかけてくる声というのは安心感が違います。
特におすすめなのが、文化放送あたりでやってる声優の毒にも薬にもならないラジオですね。
あの信者以外お断りな糞つまらなさがかえって深夜徘徊のときには安心感を生むのです。
この時だけは普段TBSラジオ信者の僕も文化放送信者になってしまいます。
そうしている内に心の闇は晴れていき、ワクワクモードに戻ってきます。
こうなったらこっちのもんです。
発見など深夜徘徊の魅力を存分に楽しめ、一種のトランス状態に入ります。
ゲームのデバックモードの誰もいないステージ的な感じでしょうか。
あの感じが最高に現実で味わえると気持ちいいのです。
自販機でコーヒーを買って、タバコで一服も堪りません。
冒険とかロマンってこういう事だと実感できます。
しかし、ふとした瞬間にダークサイドはまた現れます。
耐えるしかありません。
耐えたらまた深夜ーズハイが待っています。
それを繰り返していく内に、朝焼けが見えて来た時の幸福感ったら無いです。
恐怖と孤独感で疲労困憊のところに朝日が昇る。
希望が感じ取れます。
そうしたら松屋辺りの底辺っぽいチェーン店で食事をしましょう。
しょぼい様な飯屋ってのがポイントです。
なんか気分が報われます。
深夜徘徊ってこの瞬間のためにやってると言っても過言じゃない気持ちになれますよ。
じれったい。
私は反芻が出来る。
今まで人間誰しもが出来るスキルだと思っていたがそうでもないらしい。
友人に話しても全く理解されず、とてもショックをうけた覚えがある。
厳密に言えばゲロではない。
自分の中のゲロは胃酸が混じり、酸味や苦みに溢れている食べモノの逆流という認識である。
しかしこの反芻は、食べたものが咀嚼され、そのまま戻ってくるのである。
胃酸も何も混じりけ無いさっきのディナーがぐっちゃぐちゃでリータンする。
なので、ビジュアルはともかく、なかなか美味しいのが特徴的だ。
特にラーメンやうどんといった汁ものは旨い。
食べて十分くらいしたら反芻タイムが訪れ、一時間ぐらい掛けて十回ぐらい反芻を楽しむ事が出来る。
食事の余韻に浸る間もなく、セカンドディナーが始まるのだ。
正直、この体質はかなり人より得していると思う。
原因は不明だし、正式な病名もなさそうなこの反芻。
別にストレス性のものでもないので困っては居ない。
おそらく、早食いのクセがあるのでよく噛まずに食べているのが要因の一つかもしれない。
もうひとつは特異体質で胃腸と食道の区切りがゆるゆるガバガバなのかも知れない。
ちなみにポテチとか食べた後に反芻すると、ペースト状に加工された見事なジャーマンボールがリターンしてくる。
コレがまた旨すぎるんだよね。
これがしたいがためにポテチ食ってるところもある。
ぜひとも反芻できない方々の為に商品化してほしい。
小学校低学年の頃、おじいさんと一緒に近所の科学館に行った。
実験コーナーやおもしろ現象体験など今でもワクワクするようなイベントが盛りだくさんだった覚えがある。
ひととおり回り終えた後、休憩コーナーで休んでいた。
その隣にはパソコンコーナーがあり、インターネットが無料で使えるとの事だった。
僕はパソコンを学校ぐらいでしかした事が無かったので、興味本位で立ち寄った。
適当にピンボールをしていると、僕の隣に小学六年生ぐらいのお兄さんがやって来た。
TシャツINに白ハイソックス、ださい刈上げにダンロップと役満ナード野郎だったのを強烈に記憶している。
いかにも、ネットに詳しい自分に酔っているような、背伸びしたナード野郎であり、
ネット無知民の僕に対して、コピペの「welcome to underground」的な感じで僕に色々ネットの事を教えてくれたのだ。
今思うと小学校低学年に自己を誇示するのはかなりださい。
その当時はフラッシュ全盛であったため色々なフラッシュ動画を見せられる。
低学年にその面白さが理解できる訳無く、かなり見てはいけないものを見せられている気がした。
その中でも特に印象深いのが「ハゲの歌」である。
ハゲばっか出てくるフラッシュにクラシックのパロディソングをあわせたこの世代の記憶に痛烈に残っているアレである。
やはり、低学年なのでまだ面白さは分かっていなかった。
対照的に大爆笑しながらはしゃぐナード野郎。
まるでコレが分かる奴はセンスがあると言わんばかりのうざいアレである。(全然違うけどラーメンズ的な笑)
「大きくなったらこういうので笑える日がくるんだろうな」と子供心に思ったものである。
それと同時にうんこちんこで爆笑していた僕としては得体の知れない種類の「笑い」に気持ち悪さを感じていた。
なんなんだろうかこの嫌悪感は。
しかもナード野郎はそのフラッシュを大音量にしてスピーカーで流し始めた。
科学館内にこだまするハゲの歌。
反応する子供達に、動揺する大人達。
なんせたちの悪い高学年ナードがそこで1人爆笑しているのだから。
うちのおじいさんも物悲しそうに彼を見つめていた。
そして彼の近くに僕が居た事に気付くと、そこから離れろと言わんばかりの手招き。
何となくそのニュアンスが感じ取れた僕もとっさにおじいさんのもとへ。
そうして帰り道にぼそっと僕にこうつぶやいた。
「あんな悲しい人間にはなるなよ。」
人生の深みみたいなものを初めて感じさせられたコメントであった。
子供心に心打たれたのを覚えている。
振り向くと、ナード野郎は相変わらず得意げにフラッシュを爆音で鳴らしていた。
彼は今何をしているのだろうか。
深夜一時。
ラジオ好きならばこの言葉を聞いただけで特別な感情を抱くだろう。
一時三時というのは深夜ラジオにとってゴールデンタイム、各局気合いを入れている時間帯だ。
その中でも特にアツいのがANNとJUNK。
歴史あるニッポン放送の看板・ANNに対抗するために作られたTBSラジオ・JUNK。
ややアーティスト色の強い前者に対して、芸人一辺倒の後者。
この両者の戦いはもう十年を超える。
今となっては、JUNKが伊集院光や爆笑問題を中心に盤石の地位を築き上げ、ANNを大きく引き離している。
ただ一つ、木曜日を除いては。
そう、オールナイトニッポンの木曜日は他者を寄せ付けない絶対王者・ナインティナインが君臨するのだ。
2013年現在、19年の歴史を誇り、ANN史上最長パーソナリティーとして木曜の夜に立ちはだかる。
他の曜日ではANNを圧倒して来たJUNK。
しかしこの木曜日だけはナイナイに苦渋を飲まされて続けて来た。
その歴史をJUNKサイドびいきで紹介しよう。
舞台は十一年前、2002年まで遡る。
TBSラジオは深夜一時台のラジオを再編し、新たに「JUNK」枠を創設。
とはいっても枠に呼び名をつけただけで特に変化はない。
ただ一つ言えるならば、それまでアーティストや文化人ばかりだった死に枠・木曜日に芸人を投入した事だろう。
それまでは木曜のナイナイに太刀打ちする気は無く、別の層を取り込もうとしていたのだが、JUNK創設を機についに本気を出したのだ。
この当時は月曜・伊集院、火曜・爆笑問題、水曜・コサキン、金曜・極楽とんぼというラインナップ。
木曜改革の急先鋒に挙げられたのがご存知、さまぁ〜ず。
関東芸人でナイナイに対抗できそうなのはこの人達しか居なかった。
改名後、再ブレイクを果たし、内Pでその手腕を発揮するなどノリに乗っている時期だった。
悲しいダジャレといった名コーナーが生まれたり、スペシャルウィークにはウッチャンをはじめ、豪華関東芸人祭りを繰り広げたものの、僅か二年で惜しくも終了。
改めてナイナイの強さを実感する事となった。
最終回大竹が「二年じゃなんもできねーよ」と嘆いて居たのが記憶にある。
終了後すぐにナイナイの方にゲストでさまぁ〜ずが呼ばれたのは完全敗北の証だった。
そして、やはり太刀打ちできないと悟ったTBSラジオは迷走する。
オセロ中島をパーソナリティーに迎え、女性層の獲得に走ったのだ。
「オセロ中島の黒真珠婦人」はまさに現在の彼女も相まって黒歴史となった。
2ちゃんでネタにする人間は未だに多いものの、誰もその音源を聴いた事が無いという伝説もある。
もちろん深夜一時に女性層が得られるはずもなく、一年で終了。
その十年後、まさか中島自体も終了するとは誰も思わなかっただろう笑
やっぱり、ナイナイに対抗するのはお笑いだ!ということでJUNKも帯を締め直す。
M−1王者からバラエティー進出などノリに乗っていたアンタッチャブルを起用。
本気で木曜日の奪還を試みた。
「アンタッチャブルのシカゴマンゴ」は職人を全面に押し出し、いかにもな深夜ラジオを繰り広げる。
ツッコミ先行宣言やモテない替え歌といった名コーナーを生み出し、開始から二年経った2006年、ついに聴取率でナイナイに迫るようになった。
もしかしたら行けるかもしれないという雰囲気を初めて感じさせてくれたラジオであった。
そして更に二年後、2008年。
ついに聴取率でシカマンがナイナイを上回る。
JUNK史上初の快挙にTBSは湧いた。
しかし、その次の週のSPweekでは惨敗。
一矢報いたもののまだまだ絶対的な存在であった。
2010年に事件は起こる。
柴田の休養により、ザキヤマピンのラジオを強いられる事となった。
復帰のめどは立っておらず、有田などのゲストをつないで延命を図ったものの、あえなく終了。
現在見られるアンタッチャブル崩壊はココから始まったのである。
ザキヤマが最後に放った「本当の最終回をやりたい」という言葉を今でも信じて待ち続けている。
イチから建て直しを図る事となったJUNK。
この改編でシカマンの他、水曜の雨上がり・べしゃりブリン、金曜の加藤浩次・吠え魂が相次いで終了となった。
十年近く続いたラジオを打ち切り、若返りを図るという意図にはいまでも疑問が残る。
若年層を意識し、水曜には南キャン・山里、金曜にバナナマンを起用した。(バナナは月曜2部からの昇格)
話を戻して、木曜日。
この枠に指名されたのは、アンタッチャブルと同じ人力舎のおぎやはぎであった。
このおぎやはぎ、実は金曜→火曜(2部)→木曜といった具合にのらりくらりとJUNKでは珍しく移動を繰り返している。
元々金曜JUNK就任も、全枠の極楽とんぼが山本の不祥事で終了したため、その代理からだった。
今回の木曜就任もアンタッチャブルの代理といったように不祥事に縁がある。
JUNKの中でも特にメガネびいきに思い入れが強い僕としては嬉しさの半面、不安があった。
「おぎやはぎには木曜は荷が重い」と。
収録だった二部から時間が増え、生放送になったJUNKに帰って来てくれたのは嬉しいけど、ナイナイに勝てず短命に終わるような気がしてならなかった。
しかし、シカマンが打ち切られなければ、メガネびいき打ち切りの可能性もあったため、何とも言えない気持ちになったのを覚えている。
そんなこんなで始まったメガネびいき。
めちゃくちゃ面白いんだけど、数字ではイマイチという感じが続く。
でもそこはおぎやはぎらしくのらりくらりとマイペースな放送を繰り広げた。
そして就任から2年経った2012年・春。
ついにおぎやはぎはナイナイに聴取率で一位を取り返した。
一部リスナーにはちょっとした騒動となった「まどかマギカ」をスペシャルウィークに仕込み、ネットを中心に新たなリスナーを獲得したのが功をなしたのだ。
そのままの勢いで次のスペシャルウィークも善戦し、ついにはナイナイを脅かす程のラジオに成長した。
ついに、その年の11月には最高聴取率で念願のJUNK全時間帯勝利を果たし、ANNに完全勝利を果たした。
苦節十年、ようやくJUNKの野望を達成できたのだ。
こうして長きに渡る木曜戦争はひとまず幕を下ろした。
現在では若干ナイナイリードなものの、善戦を繰り広げている。
これからの双方の発展に期待したい。
特にナイナイよりおぎやはぎ派な僕としてはプロデューサーとなった宮嵜Dの職権乱用でいつまでもおぎやはぎは続けてほしいものである。
あとバナナマンは個人的に降りてもいいような気がする。
マンネリに継ぐマンネリだし、彼らも楽しんでいるようには見えない。
サンドウィッチマン辺りを起用してそろそろ新しい風が欲しい。
ちょっと愚痴が入ったが、これが木曜深夜の決戦の全容である。
こんなアツいストーリーがあったという事を記しておく。
ラジオってやっぱ最高だ。