もう年末。
この前まで糞暑いと思っていたのにあっという間。
年末のあの雰囲気はかなり好き。
というか冬休みってヤバいよね。
特に小学生の時なんて、テンションの上がりようはハンパ無かった気がする。
だってテレビが見れるから笑
朝起きて、家族と飯食って、「宿題しなさいよー」といいつつ仕事に向かう親を見送った後にはもうこの世の自由を謳歌したもんです。
答えてちょーだいを流し見しつつ、fnnニュースになったら作り置きの昼飯を食べる。(あのおにぎりとか前日のオカズとか詰め合わせてあるめちゃくちゃノスタルジーな奴ね)
飯を食い終えたら、いいともを視聴。
なぜか小学生の頃はいいともを見るのがステータスだと思っていた笑
たまにしか見れないからそういう認識があったんだと思う。
そして年末仕様のごきげんようを見終えてた辺りから、段々、テレビに開き始める。
再放送とか芸能ニュースとかまじで興味なかったので魔の時間、つまり魔境が訪れるのだ。
そういうときには、教育テレビに逃走を図る。
学校早退したり、サボった時と同じように、昼間の教育テレビば非常にエモい。
あの感じはヤバいよね。
特に幼児向けのプログレっぽい番組は非常にレベルが高く満足していた。
大人になってアレを見てもまったく意味が分からないところが凄い。
しかもあの狂ってる感じを大人達が狙って作っていると考えるとさらに感慨深いものがある。
メイキングが見たいものです。
んで夕方ぐらいになるといきなり雪が降り始めてテンションがあがる。
あしたはつもるぞなんて思いながら窓から外を眺め続ける。
テレビからは年末仕様のスペシャルなcmとかが流れてさらに雰囲気マックス。
ああ、書いてて当時の事を思い出す。
非常に堪らない。
もう一度、あの頃に戻りたい。
久々の更新ですが完全にブログに飽きています笑
というか最近微妙に忙しくなって来たので、更新する暇がないんだよね。
家帰って来ても凄い疲れてるし、やる事も残ってるからこんなくだらない文章書いている場合じゃないんです。
まあ、言い訳なんですけど。
というか書きたい事が余りなくなってきたってのもある。
アンテナ張れて無い状態が続いているのですよ。
ちょっと前までは毎日更新してたけど、あの時はブロガーズハイみたいな感じで毎日書きたい事が湧き出て来たんだよね。
多分、めちゃくちゃ暇だったからあんなに頑張れたと思う笑
ギリシャで哲学が生まれたのはめちゃくちゃ暇だったからというのを裏付けるエピソードですね。
昔のギリシャ人の哲学者ってのは只の金持ちニートなんですよ。
身の回りの事は奴隷に任して、自分は悠々自適に過ごす。
暇すぎる故に、哲学とかいう概念を生み出しちゃった訳なんですね。
だから哲学を学ぶ時は「こいつら暇過ぎたんだなあ」と思いながら学習すると、なんだか切なくなりますよ。
このブログは哲学って訳じゃないけど、暇な時ってのはアイディアとか発想が生まれやすいんですね。
くだんねーこと考えてる奴ってのは心にゆとりがある訳ですよ。
暇というか気の持ちようってのもある。
だから何が言いたいかというと、奴隷制度を復活させろってこと!
あれは素晴らしい。
イメージ的には白人が黒人を買って来て鞭でこき使う、ってのがあるけど実際は全然違うんで酢。
確かにそういうブラック体質なところモあったけど、本当は住み込みのお手伝いさんを雇う感じなんすね。
マネージャーとか付き人が現代の奴隷に近いかもしれない。
でも現代と違うのは奴隷に人権はないんです。
常に主人の言いなりで、自由なんて一つもない。
そりゃ一応人間だから、主人も休ましてあげたりするけど、真のリバティーは望めない切なさがある。
ここをどうクリアするかが現代における奴隷制度復活の鍵となる気がします。
ちなみに奴隷は自分自身を買い取って自由身分を手に入れる事が出来ちゃうんです。
だから奴隷として買われたら一生そのままって訳でもないんですね。
これはなかなかモチベーションになる気がする。
奴隷とはいわないけどマネージャー的な存在が欲しい今日この日頃。
架空のバンドを考えて、勝手に曲とかライブを妄想する事がある。
こういう遊びは凝れば凝る程面白い。
名前は勿論、ジャンルやレーベル、ロゴ、ジャケットデザインまで考えるともう止まらない。
このまま架空であるのがもったいないぐらいのバンドになる。
夜寝る前に、目を瞑るとおもむろにこいつらの曲が再生されるぐらいまでになってしまうのだ。
しかし、曲は頭の中でかっけーのは鳴っているものの、それをフィードバックするスキルは皆無なので永遠にお蔵状態。
デザインも同じ理由で頭の中だけに存在する。
発想はあってもそれを実際に形にするのは相当難しい。
コレが皆様に伝えられないのがとてももどかしいのだ。
もし技術さえあれば!と常に無力さを感じる。
Tシャツとかステッカーはマジで作ってみたい笑
でも考えるだけならば誰でも出来るし、どんなぶっ飛んだ設定でも頭の中だけなら許されるのでたのしいんですね。
自分を楽しませるためのものだから、一番いいものであることは間違いないんです。
人が満足するかは度外視で自己満足の塊なのですよ。
渾身のセンスで真面目にかっけーと思いついたバンド名でググったときに、実在する凄いダサイv系のバンドがでてきたときは自分のセンスを疑いますね笑
こいつらと同じ発想かよ的な。
浦島太郎の玉手箱の中身は実は鏡だったという説がある。
玉手箱を開けて不思議な力で一気に老化したのではなく、鏡を見て自分の老いた姿に気付いたというのだ。
なかなか納得できる説だと個人的に感じる。
おとぎ話なんてのは基本的に口答伝承である。
人と人とを通して現代まで伝わって来ている。
その過程には、当時の一般庶民達にも通じているだろう。
なので改編が何度も行われている可能性が高い。
鏡の歴史をたどると、鏡が広く普及したのは江戸時代からである。
元々、青銅鏡や銅鏡などは古来から日本に普及している。
しかし、それは祭事的な宗教アイテムであり、一般市民の目に触れる事は多くなかったのだ。
だから鏡がどんなものか知っているのは江戸時代までは貴族とか特権階級の奴らばっかの可能性がある。
そして、浦島太郎の物語が載っているのも「丹後国風土記」「日本書紀」「御伽草子」といった書物である。
勿論、読み物なんてものも識字が可能な階級でしか普及しない。
特に現代に伝わる浦島太郎の話として明確なプロットとなるのが室町時代に作られた御伽草子である。
御伽草子というのはその時点での昔話や不思議な話をまとめたものらしい。
つまり、この時点では玉手箱=老化の魔法という認識がある。
そして、その時代以前は鏡の普及はない。
浦島太郎という話を鏡を知っている特権階級にある貴族作家が作っていたとするとどうだろうか。
その話はいろいろな人を通して、盛られたり、ブラッシュアップされて来たのだ。
その途中の段階で、先述した庶民にも触れる。
その段階で「オイ、最後の鏡ってナンだよ?」となる可能性が高い。
みんな鏡の存在を知らないのだ。
落ちに認識に無いものを出された時程、糞オチと叩かれる事は無い。
鏡というテクノロジーが認識されていなかったのだ。
だから人々は納得できるように、ファンタジー脚色を施したのだ。
「変な煙に包まれたら、いきなりジジイになるって面白くね?」と。
そっちのほうが振り切れていて納得できる、SFな方が物語として興味深い。
そういうわけで鏡の存在は抹消され、不思議な力と認識されていったのである。
そしてその形での浦島太郎が普及し、室町の御伽草子にまとめられたのだ。
どうだろうか。
専門的な知識も無いので全て妄想の域を出ない。
ただ、こういう説があってもいいんじゃないかと思う。
亀を助けて、竜宮城という名の近所の島に連れてかれた。
そこでの時間は楽しく、あっという間に過ぎていきついに帰る事に。
当時は時計やカレンダーもない。
浦島は自分の老けを実感できていなかったのだ。
もしかしたら、その島に外部の血を取り入れるために選ばれただけかもしれない。
だからやりまくりで老いを余り感じていないのだ。
そして当時かなりのレアアイテムであった鏡をお土産に受け取る。
竜宮城のねーちゃんはいたずらっぽく「絶対玉手箱あけちゃだめよ」という。
ココには自分の老けっぷりをみたらショック受けるだろうな的なニュアンスがあったのだ。
ついに浦島は鏡で自分の姿を見てしまう。
自分の認識以上に老け込んでいたのだ。
現実を知らせるツールとして鏡は存在するんである。
その他に相対性理論とかタイムトラベル説とかいろいろあるけど、ただ単に時間を忘れて遊びまくっただけなんじゃないかと感じる。
当時のどんでん返しベストセラーのような話だったんじゃないでしょうか。