玉手箱を開けて不思議な力で一気に老化したのではなく、鏡を見て自分の老いた姿に気付いたというのだ。
なかなか納得できる説だと個人的に感じる。
おとぎ話なんてのは基本的に口答伝承である。
人と人とを通して現代まで伝わって来ている。
その過程には、当時の一般庶民達にも通じているだろう。
なので改編が何度も行われている可能性が高い。
鏡の歴史をたどると、鏡が広く普及したのは江戸時代からである。
元々、青銅鏡や銅鏡などは古来から日本に普及している。
しかし、それは祭事的な宗教アイテムであり、一般市民の目に触れる事は多くなかったのだ。
だから鏡がどんなものか知っているのは江戸時代までは貴族とか特権階級の奴らばっかの可能性がある。
そして、浦島太郎の物語が載っているのも「丹後国風土記」「日本書紀」「御伽草子」といった書物である。
勿論、読み物なんてものも識字が可能な階級でしか普及しない。
特に現代に伝わる浦島太郎の話として明確なプロットとなるのが室町時代に作られた御伽草子である。
御伽草子というのはその時点での昔話や不思議な話をまとめたものらしい。
つまり、この時点では玉手箱=老化の魔法という認識がある。
そして、その時代以前は鏡の普及はない。
浦島太郎という話を鏡を知っている特権階級にある貴族作家が作っていたとするとどうだろうか。
その話はいろいろな人を通して、盛られたり、ブラッシュアップされて来たのだ。
その途中の段階で、先述した庶民にも触れる。
その段階で「オイ、最後の鏡ってナンだよ?」となる可能性が高い。
みんな鏡の存在を知らないのだ。
落ちに認識に無いものを出された時程、糞オチと叩かれる事は無い。
鏡というテクノロジーが認識されていなかったのだ。
だから人々は納得できるように、ファンタジー脚色を施したのだ。
「変な煙に包まれたら、いきなりジジイになるって面白くね?」と。
そっちのほうが振り切れていて納得できる、SFな方が物語として興味深い。
そういうわけで鏡の存在は抹消され、不思議な力と認識されていったのである。
そしてその形での浦島太郎が普及し、室町の御伽草子にまとめられたのだ。
どうだろうか。
専門的な知識も無いので全て妄想の域を出ない。
ただ、こういう説があってもいいんじゃないかと思う。
亀を助けて、竜宮城という名の近所の島に連れてかれた。
そこでの時間は楽しく、あっという間に過ぎていきついに帰る事に。
当時は時計やカレンダーもない。
浦島は自分の老けを実感できていなかったのだ。
もしかしたら、その島に外部の血を取り入れるために選ばれただけかもしれない。
だからやりまくりで老いを余り感じていないのだ。
そして当時かなりのレアアイテムであった鏡をお土産に受け取る。
竜宮城のねーちゃんはいたずらっぽく「絶対玉手箱あけちゃだめよ」という。
ココには自分の老けっぷりをみたらショック受けるだろうな的なニュアンスがあったのだ。
ついに浦島は鏡で自分の姿を見てしまう。
自分の認識以上に老け込んでいたのだ。
現実を知らせるツールとして鏡は存在するんである。
その他に相対性理論とかタイムトラベル説とかいろいろあるけど、ただ単に時間を忘れて遊びまくっただけなんじゃないかと感じる。
当時のどんでん返しベストセラーのような話だったんじゃないでしょうか。