2013/12/08

スレーヴ

久々の更新ですが完全にブログに飽きています笑
というか最近微妙に忙しくなって来たので、更新する暇がないんだよね。
家帰って来ても凄い疲れてるし、やる事も残ってるからこんなくだらない文章書いている場合じゃないんです。
まあ、言い訳なんですけど。

というか書きたい事が余りなくなってきたってのもある。
アンテナ張れて無い状態が続いているのですよ。
ちょっと前までは毎日更新してたけど、あの時はブロガーズハイみたいな感じで毎日書きたい事が湧き出て来たんだよね。
多分、めちゃくちゃ暇だったからあんなに頑張れたと思う笑
ギリシャで哲学が生まれたのはめちゃくちゃ暇だったからというのを裏付けるエピソードですね。
昔のギリシャ人の哲学者ってのは只の金持ちニートなんですよ。
身の回りの事は奴隷に任して、自分は悠々自適に過ごす。
暇すぎる故に、哲学とかいう概念を生み出しちゃった訳なんですね。
だから哲学を学ぶ時は「こいつら暇過ぎたんだなあ」と思いながら学習すると、なんだか切なくなりますよ。

このブログは哲学って訳じゃないけど、暇な時ってのはアイディアとか発想が生まれやすいんですね。
くだんねーこと考えてる奴ってのは心にゆとりがある訳ですよ。
暇というか気の持ちようってのもある。

だから何が言いたいかというと、奴隷制度を復活させろってこと!
あれは素晴らしい。
イメージ的には白人が黒人を買って来て鞭でこき使う、ってのがあるけど実際は全然違うんで酢。
確かにそういうブラック体質なところモあったけど、本当は住み込みのお手伝いさんを雇う感じなんすね。
マネージャーとか付き人が現代の奴隷に近いかもしれない。
でも現代と違うのは奴隷に人権はないんです。
常に主人の言いなりで、自由なんて一つもない。
そりゃ一応人間だから、主人も休ましてあげたりするけど、真のリバティーは望めない切なさがある。
ここをどうクリアするかが現代における奴隷制度復活の鍵となる気がします。

ちなみに奴隷は自分自身を買い取って自由身分を手に入れる事が出来ちゃうんです。
だから奴隷として買われたら一生そのままって訳でもないんですね。
これはなかなかモチベーションになる気がする。

奴隷とはいわないけどマネージャー的な存在が欲しい今日この日頃。

2013/12/01

フィックション

架空のバンドを考えて、勝手に曲とかライブを妄想する事がある。
こういう遊びは凝れば凝る程面白い。
名前は勿論、ジャンルやレーベル、ロゴ、ジャケットデザインまで考えるともう止まらない。
このまま架空であるのがもったいないぐらいのバンドになる。
夜寝る前に、目を瞑るとおもむろにこいつらの曲が再生されるぐらいまでになってしまうのだ。

しかし、曲は頭の中でかっけーのは鳴っているものの、それをフィードバックするスキルは皆無なので永遠にお蔵状態。
デザインも同じ理由で頭の中だけに存在する。
発想はあってもそれを実際に形にするのは相当難しい。
コレが皆様に伝えられないのがとてももどかしいのだ。
もし技術さえあれば!と常に無力さを感じる。
Tシャツとかステッカーはマジで作ってみたい笑

でも考えるだけならば誰でも出来るし、どんなぶっ飛んだ設定でも頭の中だけなら許されるのでたのしいんですね。
自分を楽しませるためのものだから、一番いいものであることは間違いないんです。 
人が満足するかは度外視で自己満足の塊なのですよ。

渾身のセンスで真面目にかっけーと思いついたバンド名でググったときに、実在する凄いダサイv系のバンドがでてきたときは自分のセンスを疑いますね笑
こいつらと同じ発想かよ的な。

2013/11/26

まとめずつらつら書きました

浦島太郎の玉手箱の中身は実は鏡だったという説がある。
玉手箱を開けて不思議な力で一気に老化したのではなく、鏡を見て自分の老いた姿に気付いたというのだ。
なかなか納得できる説だと個人的に感じる。

おとぎ話なんてのは基本的に口答伝承である。
人と人とを通して現代まで伝わって来ている。
その過程には、当時の一般庶民達にも通じているだろう。 
なので改編が何度も行われている可能性が高い。

鏡の歴史をたどると、鏡が広く普及したのは江戸時代からである。
元々、青銅鏡や銅鏡などは古来から日本に普及している。
しかし、それは祭事的な宗教アイテムであり、一般市民の目に触れる事は多くなかったのだ。
だから鏡がどんなものか知っているのは江戸時代までは貴族とか特権階級の奴らばっかの可能性がある。

そして、浦島太郎の物語が載っているのも「丹後国風土記」「日本書紀」「御伽草子」といった書物である。
勿論、読み物なんてものも識字が可能な階級でしか普及しない。

特に現代に伝わる浦島太郎の話として明確なプロットとなるのが室町時代に作られた御伽草子である。
御伽草子というのはその時点での昔話や不思議な話をまとめたものらしい。
つまり、この時点では玉手箱=老化の魔法という認識がある。
そして、その時代以前は鏡の普及はない。

浦島太郎という話を鏡を知っている特権階級にある貴族作家が作っていたとするとどうだろうか。
その話はいろいろな人を通して、盛られたり、ブラッシュアップされて来たのだ。
その途中の段階で、先述した庶民にも触れる。
その段階で「オイ、最後の鏡ってナンだよ?」となる可能性が高い。
みんな鏡の存在を知らないのだ。
落ちに認識に無いものを出された時程、糞オチと叩かれる事は無い。
鏡というテクノロジーが認識されていなかったのだ。

だから人々は納得できるように、ファンタジー脚色を施したのだ。
「変な煙に包まれたら、いきなりジジイになるって面白くね?」と。
そっちのほうが振り切れていて納得できる、SFな方が物語として興味深い。
そういうわけで鏡の存在は抹消され、不思議な力と認識されていったのである。
そしてその形での浦島太郎が普及し、室町の御伽草子にまとめられたのだ。

どうだろうか。
専門的な知識も無いので全て妄想の域を出ない。
ただ、こういう説があってもいいんじゃないかと思う。

亀を助けて、竜宮城という名の近所の島に連れてかれた。
そこでの時間は楽しく、あっという間に過ぎていきついに帰る事に。
当時は時計やカレンダーもない。
浦島は自分の老けを実感できていなかったのだ。
もしかしたら、その島に外部の血を取り入れるために選ばれただけかもしれない。
だからやりまくりで老いを余り感じていないのだ。

そして当時かなりのレアアイテムであった鏡をお土産に受け取る。
竜宮城のねーちゃんはいたずらっぽく「絶対玉手箱あけちゃだめよ」という。
ココには自分の老けっぷりをみたらショック受けるだろうな的なニュアンスがあったのだ。

ついに浦島は鏡で自分の姿を見てしまう。
自分の認識以上に老け込んでいたのだ。
現実を知らせるツールとして鏡は存在するんである。

その他に相対性理論とかタイムトラベル説とかいろいろあるけど、ただ単に時間を忘れて遊びまくっただけなんじゃないかと感じる。
当時のどんでん返しベストセラーのような話だったんじゃないでしょうか。

2013/11/20

フラッシュモブ遭遇記

フラッシュモブと呼ばれるパフォーマンスがある。
発祥は海外で、街中で突発的な集団パフォーマンスを繰り広げ、何事も無かったように嵐のように帰って行くというなんとも外人の好きそうなパフォーマンスである。
例を挙げると、駅前とかの人通りが多いところで一人がいきなりダンス、それに釣られるように1人、また一人とダンスに参加、最後にはみんなで楽しくダンス!みたいなノリのやつです。
最近は日本でも流行って来ている気もしない。

まあ、なんとも幸せで平和的な悪戯なのだが、これが楽しいのは完成度が高く、自己満足で完結してない場合に限る。
何も知らない一般市民を巻き込む以上、それなりのクオリティが求められるのだ。
エンタメ全般に言えることである。

しかし、低クオリティなものに遭遇してしまったときの恥ずかしさったら無い笑
多分、自分のドッペルゲンガーと出会ってしまったときと同じぐらいいたたまれなくなるだろう。
「あいつらそっくり!ドッペルゲンガーだぜ!」なんて知らない人に思われたら最悪にはずい笑

僕がそんなフラッシュモブ軍団に遭遇したのは大学内であった。
確かに大学生がノリでやりそうな行事である。
僕は次の授業が行われる教室へいそいでいた。
若干遅刻ぎみだったのでかなり焦っていた覚えがある。
授業がある教室の建物の前には広場みたいな空間があるのだが、そこに数人がボーゼンと立ち尽くしていたのである。
最初は「サークルかなんかの集まりか?」とありがちな疑問を抱いたが、よく見るとそうではなかった。

二十人ぐらいが石像のように固まって動かない!
いわゆる時間停止系のフラッシュモブだったのである。
初めての生フラッシュモブに若干テンションが上がり、いそぎながらもそこそこ観察した。

しかし、残念な事に人数も少ないし、各々の時間停止したポーズもぶれぶれでクオリティが低過ぎた。
中には恥ずかしいのか知らないけど、ニヤニヤしたり隣の奴と喋ったりしていた低レベルフラッシュモバーも見受けられた。
まだ時間停止系のAVの方がちゃんとしてる気がする。

その低品質な悪戯の間をいそいそと気に留める事無く通り過ぎる一般人。
そしてそこに遭遇してしまう僕。
なんだかそのクソさみたいなのがとっても恥ずかしかった笑
まだクオリティ高いものだったらいいもん見た気にもなるし、ちょっと立ち止まる可能性もある。
でも、こんなクソみたいな時間停止に巻き込まれるのは堪ったもんじゃない笑
どちらかというと「よくこのクソさ、人員の少なさでやる気になったな!」と怒りすら覚えた。
ショボイブッキングライブで目当てでないバンドがスッカラカンの客に手拍子を要求する時のようなあの感情がまさにそれである。
誰も悪くないのにいたたまれない。
客としてそこにいた時には凄い恥ずかしい。
人気商売の悲しい瞬間みたいのが詰まっている気がする。
その感情をまさか大学内で感じる事が出来るとは思っても居なかった。

他の人も全く気にする事なく通り過ぎたりしているのが更に悲しくなった。
人間って冷たい生き物なのですよ。
というか日本人はそういうのには向いてないと思う。
外人と違ってあざとさみたいなのを感じちゃうのはやっぱり日本人だからなのだろうか?
「面白い事やってる俺」感みたいのがビンビンに感じ取られてしまう。
これは僕の心が歪み過ぎているのか。

でも、自分がやる側だったら低クオリティでも楽しいんだろうな笑
コレがクソメンの心理です。