映画の「桐島、部活やめるってよ」を見た。
盛り上がりも無く退屈な映画だと思った人は多分心の奇麗な人間だと思う。
純粋過ぎて笑っちゃうぐらい。
多分僕とは友達にはなれない。自分が劣等感で嫌になるから笑
でもそういう人も僕の事をくだらないと思うし、ましてや興味を持つ事もないと思う。
これはそんなこっち側の人間のために作られた映画だ。
この映画の凄いところはその人の感想をきくだけでどのような青春を送っていたかが分かるところである。
だからあんまり仲良くない人とこの映画についてガッツリと話す事はできないだろう笑
学校生活にあるリアルな痛みとか目を背けたくなるような事実をフィクションとして受け入れられるか否か。
僕は受け入れられませんでした笑
登場人物の中に自分の要素を探してしまう。
共感というか、グループ間にある見えざる壁や段差に気づいてしまう。
あのイヤーな感じがコレでもかと言うぐらいに。
この映画はキャスティングも素晴らしいし映画の作りも工夫しててなかなかいい。
でも一つ何かな〜と思うならば、桐島クンの存在がファンタジー過ぎるところである。
まあ桐島クンは神でないとこの話は成り立たないからしょうがないのだが、
それ込みでも「さすがにそんな奴いねーよ」と思ってしまう。
決して姿を現さない彼が実在するとは思えないトンデモキャラ設定なのだ。
帰宅部連中とつるむ姿が想像できない。
他の人物はリアリティ全開なのに彼だけ一気にファンタジーすぎてそのギャップがなんか違和感を感じてしまった。
グッと来たシーンは映画部役の神木くんが映画悲報を読みながら相棒を待っているシーン。
うしろにいる女の「聴かれてんじゃね?」という会話のあの感じがやばい。
その後にある「おまたー」からの一連の流れ。
「俺が監督だったらあいつらは使わないね」と発言するものの、直接には「俺ら馬鹿にされてるよな。仕方ないけど」という会話は絶対しないあの感じ。
あと自分たちが出来ない側と自覚しつつも、出来ても意味が無いと自分に言い聞かせるサッカー終わりのシーン。
プライドとあきらめのせめぎ合いが見てて自分過ぎて死にそうになった。
あと死にそうになったのが橋本愛ちゃんが実は帰宅部のリア充とつきあってたシーン。
映画のキャラとしては橋本愛ちゃんはリア充の極みといったところ。
カースト最上位に属しつつも客観的な目線を持ち円滑に過ごすことに勤めれるし、底辺の神木くんとも会話する。そして部活もそつなくこなす。
神木くんに感情移入しているとまさに女神とったところ。
自分と同じ映画を見てると言う事実だけで自分寄りの人間だと勝手に思ってしまう。けど彼女の事情を汲み取れない。
映画館のシーンをみると神木くんとはくっつくことは無いがこっち側にも理解ある女子といったところ。
自分もつられて勝手に味方だと思い込んでいた。
でも結局はやること隠れてやっちゃてる感じが悲しかったね。
裏切られたと勝手に思ってしまう。別に彼女もそんなつもりはないのに。
丁寧に伏線もしいてて、それが分かっときの自分の滑稽さたるや。
自分の実体験と重なり辛さ倍プッシュ笑
この映画を見て言える事は、とりあえず語りたくなるって事です。
桐島、部活やめるってよの本編はこっち
久しぶりに外に出た。
そして何故か草原でキャッチボール。
めちゃくちゃ球が怖かった。
交通事故以来、自分に速度を持って向かってくるものに非常に恐怖を感じるようになった。
トラウマなので何か決定的な出来事が無いと直らないだろうな。
荒治療しかないですね。
明日から頑張ろう。
というか頑張ろうと思うときって、明日の午後からが一番いいと思う。
麻起きたとき頑張ろうと思うと午前中でガス欠するし、今思っても明日の朝には忘れてそう。
だから明日の午後から頑張ろうと思った方が一番効率的に頑張る意識を持っていけるのではないのでしょうか?
まあ究極は頑張ろうと思わずに頑張っていることにこした事は無い。
そこがポテンシャルというものである。
全然関係ないがこのブログは構成とかを気にせず、頭に浮かんだ事をおもむろに書き出している。
ゆえに思考のアドリブ的なプロセスが浮き彫りになっている。
読み物としてのおもしろさも構成を考えているものに比べ低いだろう。
だから改めて自分の文章を見直すと、いかに人に分からせようとしていなのが露呈する。
たぶん人と話すときもこんな感じだとおもう。
まあひどい文章。
でも頑張るのは後にしよう。
オーゴン
カタカナで書くと黄金ぽくない。
のばし棒をいれるとさらにドラクエっぽくなる。
オウゴンだと怪獣とか塊っぽさが出てしまう。
ウという文字は固形物感を出すのに効果的なのかもしれない。
オーゴンだとゴンの部分で爬虫類感はあるものの
オーの部分で空を飛んでいる感がある。
鳥っぽさみたいな感じかもしれない。 「オー」は鳴き声かもね。
あとドラゴン系の亜種っぽい。中盤までそこそこ使えるキャラクター。
ドラクエっぽさはやはりハーゴンとかそこらへんからの着想だと分析。
このナンセンスな感じがいいですね。
ドラクエのモンスター名って格好つけ過ぎてないところがいいライン。
キャラクターを生み出すとき、
こんな感じで文字からイメージを創造していることが多いのではないか
たとえば「エルモニ」と「ヴォモドス」なら明らかに前者が陽、後者が陰である。
濁音が凶悪感を醸し出しているのかもしれない。
エルモニは妖精みたいな柔軟性のある感じ。
多分エルフからパッとそんな連想をしてるのだろう。
対してヴォモドスは野性味溢れる悪っぽいキャラ。
ドスがやっぱ文字通りドスの利いたニュアンス。
でも「ウォモトス」にしてもまだパワー系の印象が拭えない。
ヴォモドスより漂白された感はある。濁音の力はやっぱり強い。
多分トスの部分が深層心理的にブストスを連想してしまうのだろう。
さらに「エルドス」と「ヴォモニ」ならどうだろうか。
前者はエルモニの進化版ながらドスの効果によりパワー系の能力がアップしている。
聖なる路線ではありつつも少し暗黒に寝返った感もあるハイブリットだ。
後者は邪悪系な感じはあるがモニの効果により、雑魚キャラっぽさもあり愛らしい。
最後にそれぞれの濁音をとった「エルトス」と「ウォモニ」
洗礼されたイメージが出てくる。
エルトスなら神の使い的なイメージ。スタイリッシュな技を繰り出してくるだろう。
対してウォモニ。
ウォという単語から水タイプっぽい(ウォーターや魚から連想)
またモニからも柔らかさみたいな感じがある。
饅頭みたいな魚介系のキャラといったところです。
架空のキャラを妄想し、架空世界を冒険させ戦わせる。
リアル小学生の遊びだが、真面目に突き詰めていくと結構楽しい。
いわゆる創作活動と言うのは厨二だとか幼稚だと言われるところに原点があるのだろう。
ゴールデンウィーク中こんなことばっか考えていました笑
一日中ずっとソファーに座ってました。
とてもニートしてます。
部屋から出る事無く世界のいろいろなことが知れる世の中になってしまった。
昔、未来人の生活はすべてオートメーション化され、体を動かす事無くすべての事が出来るみたいな学習誌の記事があった。
それにより、人間はどんどん怠惰していきやがて体を捨て、脳みそ培養液の中で生きるようになるという恐ろしい予想に恐怖を覚えたものだ。
まさにその道への一歩を辿っている気がする。
食べ物だってクリック一つで玄関まで届けてくれるし、部屋の中からでなくても生きていけるようになってしまった。
他人とのコミュニケーションも家の中で世界中ととれるようになった。
いや〜、なんだか嫌〜な予感がしますねぇ〜(稲川淳二風)