最近ではアニメやアイドルなどのカルチャーやそれに携わる人々がテレビなどでフィーチャーされ、段々と市民権を得てきた印象はありますが、
やっぱり、それらの趣味のファンは一般社会的にははずれ者というか気持ち悪い印象が抜けません。
まだまだ、「オタクキモい」などという露骨な嫌悪感を世間からは持たれており、一向にスポーツなどの「かっこいいもの」というイメージが浸透する気配がありません。
もちろん、「オタク=かっこいい」というイメージも少なからずありますが、そんなもん一部なもので、ライトオタなんてのは、オタクの本拠地であるネット界隈でも忌み嫌われる存在でございます。
まず、僕がここであげるオタクとはどういうものか説明しましょう。
いわゆるステレオタイプなもので、アニメなど、ネットでも市民権を比較的得てる趣味のオタクであると想定してください。
オーディオオタクみたいのはまた別であると考えましょう。
人間としてキモい
オタク批判に良くあるフレーズですね。
アニメやアイドルなど、一般層(特に高齢者など顕著)からは子供の見るものというイメージからか、成長がない、大人ではないとして、人間性を否定されがちになるのです。
それに対するオタク側の反論としては、「一部しか捉えてない」や「ちゃんとアニメを見れば良さがわかるよ」などという、作品としてのアート性や本質を捉えてないから、そんなこと言えるんだというものです。
根本的に何故、アニメやアイドルに熱中する様は気持ち悪いのでしょうか?
まず、アニメについてですが、これは、「アニメとは本来、子供が見るために作られたものである」という前提があります。
歴史的にもアニメは児童向けな作品が元祖として多いですし、そもそも漫画からの派生ですから、そのイメージが強いのです。
現在でこそ、「子供の皮を被った大人向け」や「そもそも子供をターゲットにしてない」と言われるような作品も多数ありますが、我々が最初にアニメに触れるのは基本的に幼少期であることは間違いないでしょう。
ディズニーであったり、アンパンマンやポケットモンスター、これらの子供向けのアニメが未だに子供たちの心を掴んで離さないのは、アニメの絵というのは根本的に子供が好むものなのです。
現に、幼児期の子供たちをおとなしくさせるために活用されるのはアニメーションが多く、間違っても海外ドラマを見せてる家庭は少数でしょう。
このように、アニメという媒体は「子供の頃に出会い、ハマるもの」という前提は否定できないと思います。
現に僕だって子供の頃はアニメを見まくってましたし、アニメオタクにネガティブイメーズを持つ人々も同じようにアニメ鑑賞をしまくっていたことでしょう。
ヤクザだって政治家だってオシャレ人間だって、子供の頃にアニメに触れてないからああなったわけではないんです。
そして我々人類は中学生あたりになると反抗期を迎えます。
親の存在がうっとおしくなったり、自立のサインであり、人間としては普通の行動なのです。
反抗期とは「大人への憧れ」であり、自立心が強くなったり、大人たちの世界や趣味に異常に憧れを持ち、それを模倣したくなります。
段々と家庭の中で育ってきた自分を否定し、家庭の外にアイデンティティや楽しさを求めるようになるのです。
ということは、反抗期とはそれまでの「子供だった自分」を否定するという意味合いがあります。
その中には、子供の頃、好きだったものを否定するという要素があります。
子供の頃に好きだったものといえばなんでしょうか?
そう、大体の子供はアニメ鑑賞の経験があります。
通常の反抗期を迎えると「アニメ鑑賞」や「コロコロを読んでた自分」などが急激に恥ずかしくなり、そういう子供時代にハマった文化を否定し始めるのです。
そして、大半の人間は「小説」や「音楽」など、所謂、大人たちが中心となって楽しんでいく娯楽に憧れを持ち始め、大人の階段を登り、成長を果たしていくのです。
となると、アニメオタクのキモさには、この反抗期という「子供時代の否定」を持たずに成長してしまったという要素があるのではないでしょうか?
また、オタクのキモさとして見た目の悪さがあります。
顔が気持ち悪いだとか、清潔感がないだろうとか、服装がダサすぎるなど、見た目に対して批判の槍玉に挙げられやすいです。
僕個人としても、クラスメートだったオタク君はメチャクチャダサかった印象があります。
母親がイオンで買ってきたようなサイズ合っていないダサい服に、靴は決められたようにダンロップかスポルディング。
ダサいのがオタク化するのか、はたまた、オタク化するからダサいのか色々と疑問が巻き起こります。
まず、オシャレ心についてですが、これも反抗期と大いに関係があります。
前述したように、反抗期とは「子供であった自己の否定」というテーマがあります。
色気付いたり、周りの目を気にし、ファッションに目覚めるというのは、これにまさに当てはまります。
反抗期とはまず、「母親の買ってくる服」に対する否定から始まるのです。
なんも疑いもなく着ていたはずの服装が急激に恥ずかしく感じ、先輩や大人の人たちが着ているものと明確な違いを感じ出します。
そこで、反抗期にまず母親の買ってくるものは捨て去り、全て、自分の意思で買った服やものこそ正しいという価値観にガッとシフトしていくのです。
中には、「オシャレな母親だったらどーなのよ?」という意見を持つ方もいると思いますが、実際は、服自体がダサいのではなく、「母親が買ってくるから」ダサいのです。
まあ、世の母親は子供の服に対してそんなに情熱を持ちませんし、買ってくる服も「子供服」という括りの中のものでしょう。
ということはオシャレの本質は「如何に母親のセンスと対極にあれるか」という事が言えるのです。
一般社会的にトレンドであったり、オシャレな人というのは全員、母親の買ってくる服的要素を取り払ったから、そう存在しているのです。
若者文化というのは大人の否定とも取れるので十分に当てはまるでしょう。(子供≠若者に注意)
本筋に話を戻しましょう。
オタクの服装がダサいのは、このような反抗期を迎えなかったからではないのでしょうか?
前述したように、オタクは反抗期においてアニメを否定しません。
それは大人への通過儀礼である反抗期が不完全に終わった事を意味します。
という事は、「母親の買ってきた服」否定も十分に行われなかった可能性が高いのです。
いわば、反抗期が十分に作用されなかったため、子供時代のカルチャーに何も疑問を抱かず、そのまま、大人になってしまった人々がオタクと呼ばれ、世間からは、「大人ではない=ゆえにダサい」というイメージを持たれるに至るのではないでしょうか。
また、清潔感のなさや髪型のダサさなども、子供時代の延長のつもりで生きてるからだと思います。
我々人間は長く生きていく限りどんどん劣化していきます。
お肌だってすぐ汚くなるし、髪の毛だってへたってきます。
美意識というわけではないですが、体に関するメンテナンスをしていかないと、すぐに気持ち悪い印象になってしまいます。
どんだけ食べても太らなかった、子供の頃と違い、食っちゃ寝してたらすぐに太ったりする。
子供の頃はそんな事も見た目についても一切考えてなかったと思います。
色気付くというのは、「何も見た目について考えてなかった」という子供時代の否定である事にはまちがいないでしょう。
だから、通過儀礼を満足に行えなかったオタクたちは、「見た目について考える」や「自分の体はメンテナンスしないとすぐ汚くなる」という事実に気付けていないのでしょう。
また、そういうファッションや見た目に関しては、学校の授業では教えてくれないし、いろいろなジャンルがあるように正解などありません。
思春期にそれについて無関心であると、それを嗅ぎ取るアンテナや価値観が形成されず、非常に困難な事となります。
基本、ファッションセンスに関しては、ファッションに目覚めてからも、数回、否定の段階を繰り返して、能力を上げていくことが多いです。
「まず、子供服を否定→先輩や周りからアイディアを取り入れ、自分なりの服装、スタイルへ→やっぱダサい→次はコレ→みんなやってるから、再度否定→次のステージへ」という二段、三段のどんでん返しプロセスを経なければならず、反抗期はその最初でしかありません。
ファッションにおける自己のセンスの否定は、若ければ若いほど、その傷が浅くなります。
大人になってから、ファッションに急遽目覚めても、知識として「それまでの子供ファッションに近かった自分を否定する」というものしかありませんから、変な服に手を出してしまって、バカにされ、やっぱわかんねーよってことになりがちです。
そこでつまづいてしまうと、振り出しに戻るといった感じで、自分の初期アイテムである母親服を参考にしたものしか、手に出せなくなるのです。
また、周囲に参考にするものがないというのもあるでしょう。
音楽やスポーツに取り組むと、必然的にその要素から派生したファッション性というのを感じ取れると思います。
「自分の憧れる大人があれを着ているから、僕もこれを着よう」などの模倣からファッションは始まります。
しかし、アニメオタクの場合、参考にするものはアニメや周囲のオタク仲間しかいません。
そんなんを参考にしても、世間一般的なオシャレとは言えないのです。
だって、アニメ作品に出てくるやつらの服装は、制作側もファッション性を重視してないからかダサいですし、第一、三次元に投影しても異質ですからね。
コスプレという文化がある以上、日常のファッション性とは切り離されるものであるというのは明確でしょう。
だから、そういう身近に参考にする存在がいないからこそ、頑張ろうとしてもダサダサ人間が生まれがちになってしまうのです。
そして、そのような一眼で目につくようなダサさが、キモいという事実につながっていきます。
勿論、アニメオタクの中にも反抗期というプロセスを十分に消化し、さらにアニメにはまる人々というのも存在します。
創作する側にそのような人々は多いですね。
彼らの特徴としては、「子供時代の否定」である反抗期に直面した時、その象徴であるアニメ自体を否定するのではなく、「アニメへの関わり方」を否定するのです。
子供の頃のアニメ視聴スタイルは、画面に垂れ流しされる情報をそのまま受け取り、キャッキャとお気に入りのシーンを何も考えずに楽しむというものがあります。
しかし、その関わり方を否定し、アニメにおける文学性や携わる裏方などを中心とした見方にシフトチェンジするのです。
そのアニメへの関わり方は進化とも成長とも、取れますし、「アニメずっと好きだけど、ダサ坊じゃないよ。ああいうやつらと一緒にすんな」という方は、これに当てはまるんじゃないでしょうか。
そういう方は、カルチャーとしてのアニメを探求することとなりますし、必然的に音楽や文芸など他ジャンルへの関わっていくこととなり、キモくない人も多いです。
とは言っても、そう先端化していくと、ほかのカルチャーに対して興味が持てず、ある意味、世間一般からの価値観とはずれてしまい、ダサいとかキモいとか言われがちになります。
それがいいことなのか悪いことなのかはまた別の問題であります。
また、オタク中心とされるネットではよく、「中二病」という言葉が誤用されているという意見があります。
まず、中二病という概念は、伊集院光がラジオのコーナーで募集した「中学二年生の時期にとってしまいがちな行動」あるあるというのが正しく、明確な基準はありません。
いわゆる思春期、反抗期行動あるあるとして、なんとなくのまとまり方を持っています。
その中では「ブラックコーヒーを無理して飲みだす」や「洋楽を聴きだし、邦楽を否定し始める」などのネタが多くの視聴者の心に刺さり、全人類が経験しているあるあるなので使いがってもよく、ネットでもその概念が派生されていくのです。
僕がラジオ音源を聴いた限りでは、根底にあるネタの共通性というのは、「背伸びして大人に憧れた行動をとるけど、まだ子供が無理してやってるので滑稽」という、反抗期ホヤホヤの時期を大人になった今、嘲笑うものでした。
今思うと恥ずかしいけど、大人になったから自然なんだよという意味合いが中心となっています。
しかし、ネットで広まった中二病という概念はこれとは少しズレがありました。
代表的なのが、「邪気眼コピペ」と呼ばれるものであり、その詳細はもうみんな知ってると思うので言及しませんが、
その本質は「周囲が大人になり始めている時期なのに、自分だけ子供時代の延長のような行動をとってしまい、そのギャップを自嘲する」というものでした。
ネットで使われる中二病はほとんどがこの意味合いであると僕は考えています。
前者の中二病はいずれも、「大人になろうと頑張ってるけど、その背伸び感が面白い」であり、
後者の中二病は「相対的に周囲と比べ、子供っぽい行動をとってしまいそれが滑稽で面白い」という点が二つの違いであります。
誤用とまでは言いませんが、中二病という言葉には全く異なる観点からの二点が内包されています。
いずれも共通性があるのは中二時期のあるあるというだけで、前者後者で本質は全く違うのです。
オタクの多いネット界隈で中二の誤用が始まったのは、オタク自身が反抗期を充分に終えてなかったり、その反抗時期が遅かったのではないかという考察にたどり着くことができます。
とりあえず、反抗期の消化不良がオタク 化に至り、子供を捨てきれてない故にキモいというイメージにつながるのではないかという自分なりの考察でした。